極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

遅ればせながらのドラッカー

編集

企業の目的は顧客の創造である。by Peter F. Drucker ドラッカー

おおう…。価値転倒であると思うけれど、モノがあふれた社会なら企業の存続は市場を作ることなので、そうなのだ。

良いモノだから売れる、というのでなく、

歌がうまくなくても客がつかめれば、アーティストであるし、

広めたい価値観があれば、顧客を創造して広めればいい、と考えることもできる。

 

市場をつくるのは、神でも自然でも経済的な力でもなく、企業である。

消費者運動が企業に求めていることこそ、マーケティングである。

カノジョの

彼女のコンプレックスは、高学歴は人から同情されにくいってこと。彼女は高学歴の中身を問題にしているのに。学問を積んできたとして、本当に積み上げられていたのかどうか。彼女は自身を疑っているが、そんなことは人は関知しない。それが、まず一つ目の彼女の諦念。入試に失敗したという挫折を語る人が多いけれど、入試には受かったけどその先は、という問題設定は彼らにはない。

そしてさらに、そもそも「同情」「共感」の態度は身につけている人と全く身につけていない人がいる。同情的な人は、人を嘲笑することを厭うし、いつもおびえているかのようだ。対して、同情をそもそも感じない人がいる。さらに同情することと、そのような同情をも催す何らかの辛かったり切なかったりする状況とを切り離すことができる人もいる。同情を厭う人たちだ。

コンプレックスがある彼女は、同情を感じない人によって、自分の傷口に塩を塗り込まれることを恐れている。同情を感じない人は無敵だ。彼女は自分の痛みを顧みられない無慈悲な状況を恐れて、引きこもるのだ。

さらに、彼女は今こそまさに、同情を感じるような、絶えず始終求められない人に対しても善をなそうとする人が、実は少数派だということに衝撃を受けている。人は善をなすべきだと思わない人々。自分にしか関心がない、没交渉の人々が大多数なのだ。

言葉は、人に伝えるツールでありながら、まさに自分を作り編み上げているものだ。その言葉に自分を絡み取られるのではないかと恐れる「繊細な」心の有り様は、単に誤解だと「大雑把」な多数派から思われる。そうした心の存在は無視され、存在が消される。彼女のコンプレックスは「繊細なもの」の存在が無視されることに対してのものだ。苦しみはそこにあるのだ。それらが感じるなんておかしなもの、「頭良すぎ」とひねくれた評価を受けるモノになる。

そして今また、同情はやはり過剰で無駄で、人をありのままの状態から萎縮させ、欲望を制限するもの、という考え方もできる。

不寛容な種族

しかし、昨日はまた大発見してしまった。博愛とか平等とかいう寛容の精神というか、そういう価値と縁のない不寛容な種族がいて、しかも大半だということ。自分を除外しつつ、人の美醜のこだわりが甚だしく、その価値観が身を貫いている人たち。成長して人を統べる立場になれば、寛容の精神を身につけるべきというのが普通の話だと思っていたが、そういう立場になっても寛容だったりフェアを「目指さない」という種族がいる。大した話ではないけれど、発見感、がスゴい。またまたオトナになったばい。

もやもや断捨離。

今日は、もやもや断捨離。職場なのに若手スタッフから反抗期の息子娘を持つ親のような扱いを受ける。返事くらいしようね。なんでそんなことでシカトするのかな。普通のコミュニケーションの作法が取れないのはなんでかな。そんなんで将来どうするつもりなのか。これで自分がイケメン男子なら、ちやほやされているのかも知れないと思うと、さらに気色悪い。って、こいつらの推すイケメンなんて、大したイケメンじゃないよ。

人を敬う、ということがそもそも分からないんじゃないかなと思う。奥ゆかしさとか死語だ。

自分はみんなが好きなものは受け入れないと思う。流行の音楽で今聴けるのが分からない。歌詞とかぜんぜんいいと思えない。それ風だけど、だけど何、っていう感じ。

それにしてもグチ体質が甚だしい。人望を得たい、博愛、と思うけれど、どれも空回りだ。博愛という言葉の土俵に上がっていない生き物を相手にしているからだ。人ではなく、生き物だと思えば納得できる。誰に対しても正当な評価をしようとする人たちでなく、そもそも色眼鏡しかない世界に生きている。話が出来ないよ、これじゃあ。

言葉にして、捨てる

9月もまた忙しくて休めそうにない。社内では人望、社外では人脈が大事。その通り。20代でも分かっている人には分かっている話。自分は自分にとらわれすぎて気付くのが遅かった。咀嚼は大事。流動食に頼り切りになるのではなく、ある程度の余力があれば自分で咀嚼すべき。それが本当に身につけること。自分を壊すことも大事。その上でより強靭な人間を作ることが出来る。批判や否定ではなく、解決策を語ることが大事。引き受けることが大事。

どうして人望がないのか。というより、どうして、自分と志向が全く違う、気に入らない人ばかりに出会うのか。パワースポットにでも行ってみようかと思う。2泊3日は無理。1泊2日やね。バスツアー。

 

音声入力欲し

音声入力欲しい。消音マイクもあるというが、声がくぐもって認識率が落ちるらしい。それがクリアされれば、楽チンだろうな。

色んな人からの反感買い率、というか、シカト率半端ない。某F田氏は彼なりに反論してくるので分かりやすい。某T木氏は聞き流す。今こっちの話を聞いたのに、どうしてノーリアクションで他の話に移るんだ?聞き流し率がどうして高いのだろうか。人の話を話として聞いていない。こちらとしては、煮詰まっている中で提案としてやっとのことで差し出しているつもりだが、箸にも棒にもかからない。意味は分からないけど、とりあえず聞こえたよ、という橋すらかけたりはしない。空気読んでね、ということらしい。いやいや、空気なんて読まないよって。ちゃんと議論しようよ。こちらも頭に靄がかかったようにすっきりしないで話をしていて、それでも思いつきやら反射神経やらで絞り出しているのだ。それ自体が混乱の元かも知れないが。ようやく紡ぎ出した話の糸口に助け舟を出してくれる人は、あまりいないらしい。

音声入力部屋

が欲しい。ヤマハのヤツ、1.5畳とか。つくづくボッチ思考が強いぜ。しかし、音声入力は楽チンだ。あんなに書くのが楽だとは。書くというより、入力だな。長い文章も楽々だ。話すように書けるとはいい時代になった。大した内容のことを書けないので後ろから覗かれるのも聞かれるのもいやだから、ボッチ部屋が欲しい。訓練が必要だから。

夏休みとってカンボジアに行きたい。ご飯食べに。というコウケンテツの番組の後半。昆虫食やカエル、酸っぱい赤アリ、生胡椒。

6日日曜、日中に走る。長時間走るのは、OK。

さっきの続き。言葉の不自由さ、吃音症のように言葉が詰まる時もあるほど。雑記で自己反省をしているので、少しマシになったけど。

もう一つの問題。親に関するコンプレックスがあるようだ。母については、小学生のときにほおずりをされて嫌だと感じたこと、腰の骨を骨折した時、階下から呼んだのに聞こえなかったかと聞かれて、聞こえなかったと嘘を言ったこと。本当は微かに聞こえていたけれど、状況が分からず、面倒くさがって気にかけなかったこと。その後、お見舞いに言って、そんな話はせずに、ただ悲しくて泣いたこと。父に関しては、子どもの頃に夜中に目が覚めると両親の布団に入って寝たこと。父は足を擦ったこと。擦ってくれたとも言えるし、ただ擦ったとも言えるし、擦られたとも言える。末っ子なので両親にかわいがられて来たけれど、可愛がられ方をうまく身につけて来てなかったような気がすること。親戚のオジさんが怖くて泣いたこと。祖母の眼鏡も怖くて泣いたらしい。そういう怖い物をやり過ごしはしたけれど、乗り越えなかったように思う。あまりに世間知らずで、親戚連中を相手にしても何も言えなかった。親についてのコンプレックスというよりも、世間知らずの自分へのコンプレックスだ。甘え足りず、厳しさを知らず。どれも足りていない。人間的接触を避け続けて来た結果が今だ。