極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

カノジョの

彼女のコンプレックスは、高学歴は人から同情されにくいってこと。彼女は高学歴の中身を問題にしているのに。学問を積んできたとして、本当に積み上げられていたのかどうか。彼女は自身を疑っているが、そんなことは人は関知しない。それが、まず一つ目の彼女の諦念。入試に失敗したという挫折を語る人が多いけれど、入試には受かったけどその先は、という問題設定は彼らにはない。

そしてさらに、そもそも「同情」「共感」の態度は身につけている人と全く身につけていない人がいる。同情的な人は、人を嘲笑することを厭うし、いつもおびえているかのようだ。対して、同情をそもそも感じない人がいる。さらに同情することと、そのような同情をも催す何らかの辛かったり切なかったりする状況とを切り離すことができる人もいる。同情を厭う人たちだ。

コンプレックスがある彼女は、同情を感じない人によって、自分の傷口に塩を塗り込まれることを恐れている。同情を感じない人は無敵だ。彼女は自分の痛みを顧みられない無慈悲な状況を恐れて、引きこもるのだ。

さらに、彼女は今こそまさに、同情を感じるような、絶えず始終求められない人に対しても善をなそうとする人が、実は少数派だということに衝撃を受けている。人は善をなすべきだと思わない人々。自分にしか関心がない、没交渉の人々が大多数なのだ。

言葉は、人に伝えるツールでありながら、まさに自分を作り編み上げているものだ。その言葉に自分を絡み取られるのではないかと恐れる「繊細な」心の有り様は、単に誤解だと「大雑把」な多数派から思われる。そうした心の存在は無視され、存在が消される。彼女のコンプレックスは「繊細なもの」の存在が無視されることに対してのものだ。苦しみはそこにあるのだ。それらが感じるなんておかしなもの、「頭良すぎ」とひねくれた評価を受けるモノになる。

そして今また、同情はやはり過剰で無駄で、人をありのままの状態から萎縮させ、欲望を制限するもの、という考え方もできる。