極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

お風呂日記

風呂で長居しないといけないなら、いっそのこと、風呂で日記を書くと時短(=時間節約)になるんじゃなかろかと思う。ということで、風呂にメモ帳と鉛筆を持ち込んで湯船でコイツをしたためている。それにしても字を書くのは時に面倒だ。そもそも人生の時の流れはこういうものなのだろう。それが周りはもっと早く流れているような気がしている。つまり焦っているのだろう。
そして何事も単語や漢語、名詞でとらえていて、時の流れの中で変化する動き、用言、同詞で表現できていないことも、私と言葉との関わり、もとい、私が言葉とぎこちなくしか関われないでいる理由なのだろう。
で、ここまで書いてきてこの文書の最初のテーマ、着地点をどこに持って行こうとしているかを完全に見失っていることに気付いた。以上。

 

その後。

今日もお風呂日記。土曜の休日の今日書くとすれば、昨日に引き続いてとなるかも分からないが、焦点が定まらないことについて。テレビというメディアで自分が「やりたい」ことやら「できる」ことも想像がついておらず、憧れたままでもいられない。その中でよく分からない軸からまた違う軸へと自分が移ったことについて、落ち着いていないからなのか/なのだろう/なのだ。文の末尾ですらどれにしてよいか定まっていない。さほど重要なことに思われないことに焦点を定めて言い切ることがおっくう/できない/やりたくない。末尾を分割したこの書き方は少し気に入ったようだ。「自分が思う」ことについて、〜ようだ、と書く文体についてギロンがあったと思う。辿ってみよう。ともあれ、自分が戸惑いと混乱の中にあることを認めればいいだけなのだと分かった。何もまだはじまっていないというと嘘になるが、はじまりかけていて、まだ本格的にはじまっていないのは確かなのだ。