極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

お風呂日記

風呂で長居しないといけないなら、いっそのこと、風呂で日記を書くと時短(=時間節約)になるんじゃなかろかと思う。ということで、風呂にメモ帳と鉛筆を持ち込んで湯船でコイツをしたためている。それにしても字を書くのは時に面倒だ。そもそも人生の時の流れはこういうものなのだろう。それが周りはもっと早く流れているような気がしている。つまり焦っているのだろう。
そして何事も単語や漢語、名詞でとらえていて、時の流れの中で変化する動き、用言、同詞で表現できていないことも、私と言葉との関わり、もとい、私が言葉とぎこちなくしか関われないでいる理由なのだろう。
で、ここまで書いてきてこの文書の最初のテーマ、着地点をどこに持って行こうとしているかを完全に見失っていることに気付いた。以上。

 

その後。

今日もお風呂日記。土曜の休日の今日書くとすれば、昨日に引き続いてとなるかも分からないが、焦点が定まらないことについて。テレビというメディアで自分が「やりたい」ことやら「できる」ことも想像がついておらず、憧れたままでもいられない。その中でよく分からない軸からまた違う軸へと自分が移ったことについて、落ち着いていないからなのか/なのだろう/なのだ。文の末尾ですらどれにしてよいか定まっていない。さほど重要なことに思われないことに焦点を定めて言い切ることがおっくう/できない/やりたくない。末尾を分割したこの書き方は少し気に入ったようだ。「自分が思う」ことについて、〜ようだ、と書く文体についてギロンがあったと思う。辿ってみよう。ともあれ、自分が戸惑いと混乱の中にあることを認めればいいだけなのだと分かった。何もまだはじまっていないというと嘘になるが、はじまりかけていて、まだ本格的にはじまっていないのは確かなのだ。

寿命

明日死ぬ、と考えたら、襟足正して生きられる、ということを言う人が多いけど、そうなのか?とひねくれ者のわたしは思う。しかし今日、ちょっと似たことを考えた。

というのは最近、能力を伸ばすということに対し、筋力トレーニングに近いイメージを抱いている。そういう意識が最近目覚めたのだ。今、中年期になってからゼロから能力を伸ばすということは可能だろうが、しかし、スポーツ選手に見るように、はじめるのは早い方がいいのだ。当たり前のことだ。しかも、鍛えて筋力をつけるにはマックスの力を振り絞って筋肉繊維を一度壊して再生させる、ということが必要だ。だから、ちょっとずつ、という考え方では遅いのだと。

ということで、能力の伸び幅をこれから自分で確かめたいというのなら、もっと力を出さないといけない。

以上、今日のアハ効果。

今日も噛み締める

ここ1か月ほどの変化はおびただしい。もちろん今年の変化がものすごい。2月頃に部屋の大整理をして、溜め込んでいるモノたちのほとんどが安手で古い、とるにたりない小間物ばかりであることを痛感してから。いや去年の8月にこのパソコンを買って、11月にこのブログの雑記をはじめ、自己省察の記録をはじめた頃から。否定形でしかモノを語らず、自力でモノを言うことが出来ない自分に気がついて、主体的な考えができるように変えようと思ってから。自分が子どもの頃に文化を作り、楽しむことを学ばずに、スーパーやショッピングモールでの一人遊びの買い物にうつつをぬかしてきたこと。会社組織や市場開拓とは縁遠い家庭環境に育ったことへの反省。コンプレックスにこだわるあまり、社会への違和感、流行の仕掛けへの違和感を持ち続けてきたこと。しかし「流行」は結局人の能力の開拓とつながっていること、などなど。

そして人間関係。自分としてはユーモアがあり、アウトローや奇天烈な人や、ありきたりの人にさえ関心を払おうとしている人間だと思っているのに、かえって冷淡だ、真面目だ、と自分が周囲の人から思われ続けているのはなぜかということも分かってきた。お前の言うことは分からない、と言われるメカニズムも分かってきた。

自分が何をやりたいのか、なにができるのか、あるいはドラッカーの言うような「強み」がどこかも近い将来に見つかるように思う。

俯瞰して物事が見られるようになってきた。これからが勝負なのだと思える。

自分の人生、謝らないで

あんまり謝らないんだよ、自分の人生だから、とYさんに話す。「アドバイス」すると反発があるかも、と思うとなかなか言えないが、これがアドバイスかどうかと考える前にそう言ってしまったよ。その結果はどうなるのかしら。メンタルトレーニングの要素入りのマンガをそっと進めてみたが、こちらはきっぱり断られた。某アーティストの歌が沁みてきた、とジブンガタリをした段階で、ワタシ自身が線を引かれてしまったのかも。いやいや、そのマンガが単なるスポ根と思われただけやな。

ドラッガー橋本治を並べて読んでいる。ドラッガーは、人間の社会は、個人の能力や強みを活かす方向での貢献によって、成り立つ、といったことを書いている。

藤屋伸ニ氏のダイジェスト本を正しく引用すると、

「人は自分の価値観に従い、自分の強みで社会に貢献する責任があり、それが本当の幸せなのだ」

これが、目標と自律によるマネージメントだそうです。

わたしがこれに納得するのは、道徳主義からではない。地球環境や資源を蕩尽する方向に社会や科学や学問が進展するのは、人が個々の能力を楽しむならば、必然なのではないかと思うからだ。進歩や成長はそれ自体が魅力のある価値であるし。

橋本治のほうは、近代の考え方が明治時代の文学作品にどのように影響しているかを書いている。自然なようで全く自然でない自然主義についても。

ああ、しかし、雑な頭だ。カラダの筋肉を鍛えるように、頭や脳細胞や神経回路も常に動かして鍛えなければならない。カラダの方の柔軟性は少し高まりはしたが、低いままでとどまっている。いや、それにせよ、深く曲げることへの抵抗が減ってきて、曲げようとしている自分を発見することがある。この子を育ててやりたい。この子がどこまで成長するのか見てみたいと思うのだ。

のらりくらり

この間に、またお前の話は分からない、のらりくらりと交わしている、問題の箇所からズレている、と言われる。そこが問題って共有していないのに、共有しているかのような話だからズレるんじゃないの?とどこかで思っているので、不真面目だと思われてしまう。しかし、どうして会話はここまで非対称なのか。通じていないのはお互い様じゃないのか?どうして一方だけがズレている、と言われるのか。逆から見ると相手方がズレているんだと思うけど。

めまぐるしい中でも微かに変化

主体性を失くし続けて、というか、主体性を得たらとたんに自由の嵐に吹きまくられて指標を失くした私。それがここへ来て、自己啓発中。自分も納得し、人からも多少は共感されるような、分かりやすい、生きる目的を設定しましょうと。そうした自己鍛錬法はバカにしていたのだけれど、そのようにして自分を別のところに置くことの無根拠さ、が今になって沁みている。

人に変化を求めるのではなく、人が求める、正しいところに従って変化すること。滅私のようでいて、「主体的に」調和を求めること。それが共感を呼び、自分の顧客(?)になるという。

映画見た

小池栄子主演、万田邦敏監督の「接吻」。それと、東京国際映画祭で「神様なんかくそくらえ」Heaven Knows What、監督:ジョシュア・サフディ、ベニー・サフディ 主演:アリエル・ホームズ。主演の女性の麻薬と恋愛体験を映画化。いずれもよかった。

それから、障子の張替えをもくろむ。障子紙やのりを買う。また障子紙をはがして掃除中。

最近、自己啓発本まつり中。カーネギーの「人を動かす」を読んだ。日本語タイトルが優れている。どうしたら人と友だちになり、影響を与えられるか、というのが原題の直訳だが、「人を動かす」は「思考は現実化する」的な魔術的な響きがある。なので長らくタイトルだけで誤解をしていたが、内容は「企業の目的は顧客の創造」的な、倒錯的な人生訓だ。情けは人のためならず、式の「人への許しは自分に返る」という話だ。また、人はそれぞれ自分だけに関心があり、人の利益に構っちゃいないということ。それぞれの人が自分にこだわることに無関心なので、彼らに何かを押し付けようとすると、その反発が大きい。説得や教育ですら、押しつけになりうるのだ、ということ。これは目から鱗、というか、何となく分かっていたことをズバリ言われて、鱗がちゃんとはがれました。