極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

感覚の鈍感さについて

高校時代、私は美術部に所属して80号サイズの油絵を描いていた。そこはたまたま全国規模の高校美術展でも注目を集めるほどの個性的なクラブだった。新入部員に対してもデッサンや模倣からはじめる伝統的な絵画教育の手法は用いられず、いきなり自由創作が求められた。私も素人なのに芸術とは本来そうしたアナーキーなものだという風に感じていた。朝日新聞日曜版の「世界名画の旅」という連載を好んで読み、いつの時代も芸術家とは常識や慣習を打ち破っていく存在だというドラマに惹かれ、何かを理解した気になっていた。

また私は小中時代は学校の教師から絵が巧いとほめられたこともあったので、自分を過信しているところがあった。そして野球が巧いと褒められる生徒が誰しも高校野球の出場校でスタメンになれるとは限らない、というような残酷な事実とは切り離されていた。正統的な絵画マスター法を学び、そこで挫折することによって、才能が否定されるということを早期に経験することがなかった。個性や感性で勝負することこそが芸術の正しい道だと思い、メソッド無視、尺度は自分の未熟な感性だけ、というありさまだった。

今の映像制作の仕事に就いてみて、自分の感性が鋭敏などではなく、むしろ雑な方だと気づかされた。特に音楽に属するような音の出だしのタイミングやリズム感の掴み方はさっぱり設計できない。フレーム単位のことが瞬時に判断できなければならないのに、自分は編集の修練も不十分なままだ。修練の有無と言うよりは、趣味の善し悪しとは違うレベルの感度の繊細さ、鋭敏さがあり、それが作品のクオリティを保証していると知らなかったのだ。

ああ、勤勉さと修練によって乗り越えられたこともあっただろうに、入り口でメソッド無視の曲解をして、迷いの道に突き進んできたように思う。学問についても同様の勘違いをしてきた。学校の成績の良さを頭の良さと思い、頭の良さを人に誇ってはいけない、驕らないようにしなければと思いながら、本当に能力のある人がどのように優れているか、その繊細な部分を知り、自分を省みることがなかったのだ。この年で身に突きつけられるにはつらい現実である。