極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

ファッションで世を拗ねても

僻んでも得はしない。19歳のときのクリスマスイブの自己解体から●年以上経ってもまだこの域で、自分に語りかけているのは問題なのだが。最近スポーツ漫画でメンタルトレーニングについての知識を仕入れている。精神状態を平常、あるいは向上した状態に保つこと。本能がそれをやりたいと思うことをやる。本能の赴くことをするべきだと。これは随分と大変だ。サボり続けてきたってことはサボることこそが本能に従うことだった、となりかねないからだ。

今、サボらず生きようという気が湧いてきている。これ自体はいいことだが、ではサボらずに何をするか、というのが難しい。最近は毎日大掃除中で洋服をバッサバッサ捨てているが、どうしてこんなの買ったの?というものばかりが出てくる、出てくる。突拍子もない服を着こなせるほどおしゃれになりたかった、ということことの結果らしいが、それにしてもどうも似合わない。似合わない。似合わない。これは屈辱だ。容姿に不満があるので、良くしようと思い、おしゃれにしたいと願っての突拍子なさ&似合わなさとは随分情けない。

こうしたことが私には多い。奇を衒うというのは、格好をつけるのが実は難しいのに、やってしまう。センスの良さを外したい、という思いがどこかにあり、難しさを選びたがり、というのが要因か。

脱線するが、50円、100円の違いで割引商品を選びたがるという倹約の気持ちに従いがちで、結果目を曇らされて、悪いもの、捨てるようなものを買うことも多い。洋服も端的にそうだ。安い服しか買えないと思い、買って着るが、すぐに飽きる。品質の低さに気づく。今も昔の服を片付けながら安物のTシャツしか出てこない。通販が大好きで、服を買うけれど、安くて突拍子もないものを選んで結局一度も着ない服もある。倹約の気持ちと逸脱の気持ちが変に絡まり合って、相乗効果で失敗の買い物を生んでいる。出会いは出会いにしかすぎず、長く関係を築くのはちょっと、という服になってしまっている。

倹約の悪、倹約による精神への悪影響には最近気づいた。それに外したがり、突拍子のなさが加わるからさらにおかしい。ユニクロのように安価なものはスタンダードを選ぶべきだ。金を出したときに突拍子のなさを選ぶべきだ。同時に二つは両立しない。というかちゃちくなるから注意だ。

ともかく、自分の買い物は奇抜なものを選んで、人前で着られず、タンスの肥やしのままで終わったものが多い。それなのに、高級品を見抜く目を持っているつもりなのがタチが悪い。これは問題だ。失敗の過去を思うと目を背けたくなるほど、無惨だ。無惨な心象だ。思うようにならないのは、経済的な制約によるものだけではない。奇抜なものに行動が傾くのは、自己顕示欲だ。目立ちたい。美的センスが優れているということで抜きん出ていたい、という。そしてそれが失敗に終わり、それを認めたくなくて、またサボる。そうした傾向が行動をイタくしている。

こ○○り方式でいうと、ときめくものを選ぶべきだ。本心でその服を本当に欲しいと思っているかを問おう。「奇を衒うのは本心なのか?」「それをするには、オマエは十分にはずかしがりなのではないか?」「他で認められない空白を、目立つことで埋めようとしているのじゃないか?」「狙って外している、そのようなカタチで目立つことは、本意なのか?」。

奇を衒うことに向かってしまうもう一つの理由。たとえば柳宗悦のような、素朴な美の愛好家がいる。わたしはそれが割と好きだが、しかし、その流儀を取り入れるのはちょっとためらっている。好きなくせに外したい、と思う。様式をまねたくない、と思う。成り成りて在るような境地を好むのに、それを「目指す」というのが相容れないように思うのだ。それで却って、奇抜な方がいいと極端に傾く。

オマエは素朴な美を選ぶべきだ。ヤンキーファッションやストリートファッションやアメカジなんかもどれもオマエの堅物顔に似合わないのだから。トラッドもちょっとキツいから、マーガレットハウエルあたりを狙うのがいい。いわゆるナチュラル派はラブリーが入っているからやめたほうがいい。丸襟なんか着るんじゃないぞ。ズッカとか、ちょい高級くらいの店で買い物しろ。ルミネやなんかには、特定の店以外は行くな。