極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

面倒くさいが、懐かしい

NHKの「プロフェッショナル 仕事の流儀」、「風立ちぬ」制作中の宮崎駿に密着取材したシリーズの再放送を見た。老境にさしかかったアニメ監督がどうして引退を決意したか、その真相を捉えたという御触れだった。

一番共感を覚えたのは、天才アニメーターでもある監督が、「面倒くせえ」「面倒くせえ」「面倒くせえ」を連発しながら、原動画の修正をしていたこと。登場人物の動きを一枚一枚コマ送りで描いた画を一枚一枚手書きで修正する。

映画「風立ちぬ」のモブシーン。関東大震災に遭遇し、避難しようとする人々の様々な動きを俯瞰で見せる4秒ほどのシーンは完成させるのに1年半もかかったという。宮崎曰く、群衆とひと言で言うけれども、彼らは決して弱々しい人々ではなく、一人一人が強い意思を持って事態に対処しようとしている。だからこんな意思のない動きはしないよ、風呂敷包みをこんな風に片手でぶら下げて持ったりしない、大事なものだから胸に抱えて持っているんだ、と宮崎は人物一人一人の動きに細かな演出をつけ、弟子のアニメーターたちが描いてきた動画を自分の手で一枚一枚修正していく。

宮崎にとって、このシーンの修正だけが面倒くさいのではない。2時間近く尺がある長編映画の全編に彼の作りたいもの、演出意図、彼の求めるクオリティを行き渡らせるのがとてつもなく面倒で、いちいち面倒な手作業の集積なのだ。

そして若い頃の彼はこの面倒くささに天才的画力で対応できていたが、老いによっていよいよ苦痛が強まってきた。そして限界と悟り、引退を宣言するにいたったのだ。

このエピソードに面倒くさがり屋の私は嬉々とした。天才アニメ監督ですら面倒くささと戦っているのだと深く共感したのだ。そして天才監督の名言、大事なものは面倒くさいことの中にある、と。よっ、大将!という腑に落ち方だ。

私にとって面倒くさがり屋である自分というのは、十分に迷惑な在り方だが、残念ながら私は正真正銘の面倒くさがり屋だ。お風呂も顔を洗うのも歯を磨くのもとにかく面倒だ。

そして自分が面倒くさがりだと悟ったエピソードとして忘れられないのが、高校3年の時、それは数学の確立・統計、帰納法の授業の時のことだ。問題を解くように教師に指され、黒板に論証を書き連ねてその解説をする。予習してノートに記していた長い解法を板書し、さらに要点を解説するのだ。同じことをすでに3回繰り返している上に、帰納法自体も無限の「繰り返し」を含んでおり、よって、これこれの結論となることが証明される、という「反復」を含んでいるのだ。私は板書してある解法を読めば分かるのに解説をしなければならないのが途中で面倒くさくなって、説明を端折り、ちょっと面倒なので、カクカクシカジカ、とにかく繰り返していくとまあこうなりますといった風なことを話した。すると教師は正誤の判定を加え、解説を付け足しながら、私の言い草をさも可笑しいという具合に真似したので、私は教室の皆に笑われた。

後年、私はこの数学教師に恋愛感情を持つことになった。教師はこのときの「真似」を私への関心からそうしたのか、特に意識していなかったのか。この時のことを私は何度も思い返し、何となく気になる教師から特別に注目されて、いじられたというくすぐったい思いやら臆面もなく面倒くさがりを発揮してしまった恥ずかしさやらを反芻した。私にとっても懐かしがることだけは、面倒くさくないらしい。そして自分の面倒くさがり屋というパーソナリティがそんな現れ方をし、自分史上に残っていることに関心し、呆れもするのだ。

以上、宮崎駿に後押しされて思い出した脈絡のないエピソードを記す。