極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

三たび、教育の消費論

話を戻す。芦田宏直氏曰く、

1)「高度消費社会の台頭、物のあふれる社会では、物づくりに必要な体系的な知識よりも、消費者を魅了する分析不能で総合的な「物を売る力」が重要になる。」

2)「高度消費社会では、子どもまでもがお客様、つまり何を買うか選択する尊い主体として扱われます。教育現場でも、子どもは学びの主体と尊ばれ、学校は教育というサービスを消費する場となる」

3)「近代主義的な学校教育とは、主に教科学習を通じて未熟な子どもたちの主体性を育むことです。学校とは本来人づくりの場なのです。ところが高度消費社会では、子どもの主体性は教育の有無とは関係なくすでに確立していると見なされる。だから、入試でも主体、すなわち人物を評価するという発想が出てくる」。

そもそも1)について、売る力は「分析不能」という言葉を私は面白いと思っていたのだが、1)の論旨はそもそも、今の時代、物づくりより物を売る力が大事、という話だ。3)は、子どもは教育の消費者と位置づけられているが、消費者として未熟だ、という話。教育を受けることは消費でいいんだけど、未熟な消費者がいい売り手にまで育つようにいい商品(教育)を作ってね、売れ筋の商品(教育パッケージ)を作るためにはマーケティングが大事だよ、という話である。内田樹氏らの論調は、消費という概念を教育現場に持ち込むとおかしくなる、教育と消費の概念は相容れない、というものだが、芦田氏は2)3)では同じ前提に立っているようだが、実は異なっていて、まるきりアンチ内田なのだ。読解の踏み外しをさせられて、面白く思う。