極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

プア充な週末

土曜のこの日、昼の2時半まで寝てしまう。同居人と休日に暢気に同衾しているとよくこういうことが起きる。同居人は起きるなり、恩師のシンポジウムに出かけると無下に言う。こちらはスーパーで寿司を買って一人昼ご飯を食べつつ新聞を広げた。

朝日新聞の土曜版で「電車男」の撮影現場の再訪記事や、寡婦の遺族年金の仕組み、断捨離のやましたひでこ氏の来歴についての記事を読む。電車男のプロデュースは東宝の川村元気26歳だったのか、とか、「血盟団事件」「インドの中村屋」などの著作があり、大正昭和の社会運動の研究者である中島岳志氏がアキバの通り魔事件の犯人・加藤智大の境遇に思い入れていたことなどを思い起こす。やました氏の記事では、彼女が若い頃ヨガ講座に通い(オウムと同時代?)身体との対話の奥深さに目覚めた話(これは自分が今ダンスをかじって感じていることと接点がありそう)、断捨離とは断行、捨行、離行というヨガの修行の3段階に準えたことばだったと知る。寡婦の遺族年金は、フリーライターの早川幸子さんのまとめ記事だ。結婚しておらず、子どももおらず、養われてもいない自分には関係がない話だが…。ともかく老後の年金ぐらしのことをあまり気にしてこなかったなと思いつつ概算、ひと月15万円で暮らすとして、年金は月7万円程度、では後の半分は貯金でまかなうとすると、8×12×20年でも、2000万近くも必要とは…。

また朝日新聞には、本谷由希子の食についてのエッセイが載っていた。ディップというのは耳慣れない言葉だったが、メキシコで本場のディップを食べてみるとその価値が分かったという話。さすがにこなれた文章だった。西川美和渡辺あやなど脚本が書ける人の文章のなんと達者なことか。短文としてきっちりまとめあげられていることに関心する。

以上、まさに雑記。

ちなみに昨日の夜は、見逃して残念に思っていたEテレ人を動かす絵 田中泯 画家ベーコンを踊る」の再放送に巡り会う。フランシス・ベーコンという画家のことをあまり知らないので取っ付きが悪い。また相変わらず田中ミンの話はとらえどころがない! しかし、裸で踊るその肉体の美しさと顔の表情、目つきで「踊る」という方法、芸術家として異彩を発しつつも普通に穏やかに在る在り方の一端が見られてよかった。(裸で踊るって、股間はどうなっているのですか?という素朴な疑問に答えてくれないのは、どうかなーと思ったが。)高校時代に田中ミンの踊りを学校の鑑賞会に招いて見せてくれた教師への想いまで思い起こし、ひとしきり田中ミンと教師の名前をネットで検索して記事を探した。田中ミンがセシル・テイラー草月会館で近々ジョイントすること、また、東京出身の彼が都会を離れ、山梨県で若者たちと農業の実践を通じて身体を見つめるという共同生活を送っていたが、その団体活動を凍結したと知る。これはある意味、オウムの活動の終わりと軌を一にしていないかどうか、要検証。教師については新しい記事は出てこないことを確認した。

この教師との関係が私にとっては大事なのだが、そのことを語る相手はいない。アニメだかラノベかで「僕は友達が少ない」と書いて〈はがない〉と読ませる作品があるけれど、私には自分にとって大事なことを語るべき相手としての友達はいない。遊び友達もいない。職場の信頼できる先輩や後輩たちがいるばかりだ。語るべき相手としての友達をなぜ問題にするのか、今ではそれは必要がないのに。ただ自分の中の言葉が腐っていくのを惜しみ、こうしてブログに書いている。「言い淀んだ言葉が言い忘れていた言葉として蘇る」と詩人じみたことを教師は手紙に書いていた。私にとっても言葉はとても大事なものだ。言葉は嫌うほどに重い。美しい言葉は嫌うほど眩しくて手に入らない。せめて美しくない言葉だけでも手に入れたいと思う。

ということで、今日は、映画を見に行こうかジムに行って新しいヒップホップのクラスを覗いてみようかと思っていたが、引きこもりモード。洗濯機が壊れて廃棄してまだ調達していないので、3週連続コインランドリーにお世話になる。そしてブックオフに読み捨てる本を売りにいく。34冊で1300円ほど。その店で湯浅誠氏の「なぜ『活動家』を名乗るのかー岩盤を穿つ」(ちくま文庫)を中古で400円で買う。店頭で島田裕巳氏「プア充ー高収入は、いらないー」本の見出しを見ながら…。その足で無気力なりにやる気を出して、中古屋で新しい洗濯機を送料込みで16000円で買う。で、その後、サイゼリアに…。いかにもDQNの見た目の同僚が口汚くサイゼリアの不味さを罵っていたのを思い出す。私はサイゼリアは安くて好きです、はい。味自慢の店と価格設定が違うし、プア充アイテムとしてはいいんちゃうの、と同僚の意見に反感を持つ自分と、DQN風でも古風で「貧乏人向けにこんなもんやろと味に限界をつけたあこぎな商売」を嫌っているだけかも、と譲る自分がいる。

とにかく、お金持ちの文化・文明に背を向け、ルンペン・プロレタリアートに心情的に味方するのが自分の在り方の一つだと再認識する日となった。