極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

商品の膨大さについて

日曜日。イチから書き起こすのが物憂いので、以前書いたものをリライトすることに…

疑問1

商品が世に流通する。こちらは買い物先で出会った商品を買う。服飾品に顕著だが、店頭で出会ったものの中からとりあえず買う。限られた時間で見られる商品など本当に少ないのだから、それは多分に衝動買いだ。

膨大な商品がある。それらのほとんどは自分とは縁のないものだ。片やお金持ち、片やコレクターがそれらに用のある人だ。自分には金がないし、興味も審美眼もないので、縁がない。ただその膨大さに圧倒される。自分と同じ世界にありながら、縁のないモノのほうが多い。当たり前と言えば当たり前だが、一方で皆が自分とさほど変わらぬ物量のみを所有するなら、そこまでの数の商品はいらないだろうと思う。わたしはこうして人の欲望の大きさにおののき、また縁のないモノたちの存在を忌み嫌うのだ。どれだけ寛容にそれらの存在を認めようとしても、それらは消費社会の悪しさの現れだと思っている自分がいる。そう思わない人々の大群に攻められないように、彼らの存在を認め棲み分けようとするのだけれど。

商品の氾濫は消費社会の悪しき現れだと言い切る人たちが一方にいる。彼らは目の前の自然とともにある生活に充足しろといいながら、自らが充足できる良質のモノを既に手に入れたブルジョアな人々が多いのではと思い、こちらは忌み嫌うほどではないが、やっかんでいる。これにより、わたしの寄る辺なき世への居たたまれなさは少し水増しされる。

膨大な数の商品は、それら一つ一つがどれだけ無駄なものであっても、「衝動買い」の対象になるようだ。「出会い」という価値を帯びるためなのか? どんな売れない芸人にも1人2人は熱狂的なファンがいる不思議。また(年寄りに臭いをつけては失礼なのだが)年寄り臭い、古くさい、というしか言いようのない煤けたデザインの(若者向けであっても煤けている)商品が、私のような低所得者向けのスーパーのイオンだとかイトーヨーカドーなどの洋品売場に陳列されているのをみても、まあ、それらは過去にはそれなりの地位を占めていた商品なのかも知れないが、今も生き残っているのをみるとそれらの安手の商品も無駄なだけではないらしい。どれだけのモノが在庫として積み残されるのか、その積み残し分を原価に加算すればもっと高品質な商品になるのではと思うのだが。

 このような疑問はわたしにとって20年来の関心事だが、このことをテーマとして文章化したことはない。頭の中に今の時代の生きづらさとして(良く生きることの難しさとして)いつも浮かんでいるが、書きたいという欲求と結びつかなかった。そして書きたいという欲求は、出来てくる文章の貧しさにあらかじめ萎えさせられている。しかしこのテーマは自分にとっては重大問題だ。なぜ低品質の商品が改善や駆逐されることなく、少しでも良い商品の低価格や生産や流通を阻むのかが疑問だ。煤けた趣味、悪趣味も趣味だから、棲み分けを認めない訳に行かないからだろうか。売れない芸人に思い入れる人の熱さを否定することもできない。彼らは何かに惑わされているのだろうか? またそれらの煤けたデザインの商品を生産している企業が淘汰されてよいとも言い切れないと思える。

以上、まず一つ、書いてこなかったことを書いてみた。このアプローチは続けてみたい。

●膨大なコマーシャルの量。イメージ操作を否定したい自分がいる。イメージはそのもの自体ではない。商品と交換される貨幣が商品そのものではなく、その商品が置き換えられた価値、ということと相似形だ。

●オタク、コレクター、没入→フェティッシュ

●社会性、偏見

●貨幣と言葉。社会性。

●宗教と信奉者。奴隷根性

●日韓問題

反原発老荘思想

●弱き者と貧しき者。正義について

●組織について

●家族ドラマについて。日本的感情表現について

ここまで見出しを書いてきて、これらを体系的に自分が納得する形で書いてみたいと思うが、一方で突き詰めて考えてきていないから、書けないだろうとひるむ自分がいる。