極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

終戦70年

来年はそんな年になる。ジブンが例えば映像屋として仕事に賭けるならば、こうしたメモリアルイヤーに向けた企画を作ったり、作品を夢想してみたり、するのだろうか。どうもそうした前提がジブンの中で崩れている。

何かをやるのに目的や目標を設定すると、作業効率を高められ、そのような目的・目標を作業をするに際して参照することを繰り返せば、それこそ作業効率の高さが自動化する。自己目的化していく。仕事上の理想を掲げ、追究することは、仕事のクオリティを上げる。しかし、そのような理想とは何なのだ。作業の作業による自己目的化でないとしたら。

アイドルはアイドル志願の少女たちの夢の形で、ユーザーはその夢に向かって頑張る少女たちのピュアな情熱にいやされる。アイドルは自己目的化している。自動化している。頑張ること、可愛いこと、以外では能力の低い女の子たちをそのまま純粋培養した甘いお菓子。甘いお菓子を作るための甘いお菓子のような夢。どうも世の中には自己目的化した夢があるらしい。ジブンにはお互いを欺いているようにも見えるけれど、そう感じない人たちが盛り上がっている。

そうだ、ジブンにとっての仕事の目的は、生計を立てることを抜きにすれば、まずは「人間の真実を伝えること」だった筈だ。真実を伝えるのに、どの人間の、という部分については、苦難の中にある人だった筈だ。しかし、どうも欺瞞を感じるようになってしまった。まず、ドキュメンタリーとしては、アイドルの少女の真意と貧困の中にある人の真意は、等価であってよいと思うようになった。それは、そうした仕事にしか巡り会わないからでもある。貧困の問題を扱うことは、生計を立てることと矛盾する部分がある。一方でお菓子のようなアイドルの真意は、皆が欲するところだ。だから金になる。金になる仕事を望めば、人間の真実を伝えること、の「人間」の幅が極端に狭くなってくる。

原点に立ち返るのがよい、という分かりやすさをやはり選ばないといけないのか。分かりやすさを人は求め、人に提供をする仕事にジブンは就いているけれど、分かりやすさを避けたいジブンもいる。どうしても避けたい。それは宮台botの言う所の、アンチプロパガンダ、だ。芸術としてのドキュメンタリーは、アンチプロパガンダだ、と。ワタシが目指しているのは本来はソレなのだ。名声を求めるためではなく、それだけが人間の真実を伝えるというジブンの意思に叶うのだ。生計を立てることは裏切るのかもしれないが。