極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

エセ社会派、事始め1

なぜだろうか、わたしは物心ついたときから社会派だ。しかも行動しない社会派だ。

(と、ここで書くのが猛烈に面倒になる。本当に猛烈で前に進めなく感じる。「めんどうくせえ!」を連発しながら弟子たちの描いた作画に修正を入れる宮崎駿の気分だ(そんなエラいもんじゃないが)。苦痛を解きほぐす方法を探るためにこんな記事を参照した。http://blog.livedoor.jp/starlikestar/archives/51869715.html「メンドクサイが口癖なら要注意ですが。」4%の顕在意識に対して96%に上るという深層心理が嫌がっているのだとか。書きたいと言いながら心の底では書くことを嫌がっている訳だ。とにかく、いちいち何故これほど面倒くさくなるかは、ほぐす(解す)必要があるのでまた次回)

社会派ながら「行動しない」のは、徒労感から、だと考えられないか。いわゆる社会派としての活動は実際にやったことはない。しかし、例えば学校の朝礼の時に「整列しましょう」とクラスメートに指示したとする。これは集団のルールを守るという観点で、一種の社会派的行動だ。わたしは中学生のときに学級委員をし、クラス内で実際にこのような役回りを負っていたが、あるとき一度、全校生徒が体育館に集められて、前に立つ教師が注意をしているのにも関わらず、いっこうにおしゃべりがやまないときがあった。あまりにあまりな状態のところ、担任に促されて、列の後ろの方まで「並んでください」「静かにしてください」とわたしは注意をして回った。すると「親友」にあとから注意をされた。教師なんて頭を使わず愚かにも自分が出来ないことを生徒に強制しているだけなのだから、そんな奴らの言うことを聞くなんて馬鹿馬鹿しいと。(しかも、あんたは元は学級委員だが、いまは違うじゃないかと。)このような見方は当時のわたしには思いもよらないことだった。馬鹿な教師はいないと思っていなかった訳ではない。静かに人の話を聞く、という態度を取ることについてNOと言われるのは心外だった。

「親友」の忠告は、わたしが教師の“手先”のような行動を取ってクラスメートから疎んじられ、嫌われること、今の言葉で言えば「いじめ」への警告だ。そして彼女の教師批判は今から思えば穿った見方に過ぎないが、当時のわたしにとって魅惑的なものだった。教師に批判的な態度は自分にとっては考えたこともない処し方であり、大人っぽく格好良く思えたのだ。「静かにしなさい」と周囲を諭す自分の行動自体は正義感から発した行動だと確固とした信念があるのに、もう一方で何かしらの真理(たとえば、教師はダメだ、ということ)に基づいて体制側につかないという処し方に惹かれたのだ。

と、ここまで書いてきて、どんだけ支離滅裂なんや〜と我ながら驚いた。またこの「親友」がわたしにとっての躓きであることがよく分かった。

テーマに戻ると、社会派ながら「行動しない」のは、徒労感から、だ。その徒労感は、日本的な文脈で言えば「本音と建前」の相違から発する。教師の言うことを聞いて整列を促すのが建前、アホな教師の話なんか聞けるか、が本音。わたしにとってはそれだけではない、正義感に従うのが本音、周囲(同級生たち)の空気を読んで教師の言うことを無視するのが建前、という逆転の考え方も生じる。これら二つの倒立した「本音と建前」に引き裂かれてしまうが故に徒労感を覚え、どんどん行動しづらくなった、というのが今の在り方だ。

ここまで書いてみると、さらによく見えた。この「親友」が正義に与する尊敬すべき人物であったなら、わたしはさほど迷うことはなかったのだ。前にも書いた、師に恵まれなかった話になってしまうが…。そして、「本音と建前」を二重化のもとに理解し、一つに修練させていくことは、宮台真司が「再帰性」と呼ぶ事態と通底するのではないかと思う。

正義を振りかざさないことや反体制がカッコ良く見えるということ。正道を説くことが胡散臭く見えるということ。そのような少年の段階を大人は超えて行くべきだ。