極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

買い替え

14年前に中古で15,000円で買った洗濯機が壊れて、ゴミ処理業者に頼んで9,000円で処分した。ああ、リサイクルできない廃棄物を出しちまったなー、コインランドリー生活の方がいいんじゃね、と思ってみたりしたが、生活費の使い方としては折り合わない。

そしてまた今年14,800円+送料1,200円で中古の洗濯機を買った。つくづく思うのは、手で洗う、という生活にはもはや戻れはしないということ。料理ですらも毎日は無理だ。掃除も掃除機や粘着式のクリーナーなしで拭き掃除だけでは難しい。そのような時間の掛け方、家事への集中は人生をそれだけに費やしてしまって「損した」という感情を呼び起こす。

少し飛躍するが、生活の文明化、機械化がこれだけ進むと、原子力エネルギーとの共存は、「文明に依存」し切り離せない自らの在り方を省みれば、当然だという発想になるだろう。しかし、人体ならびにあらゆる生命体、環境を犯す可能性のある核廃棄物がどんどん蓄積しているという状況は看過するにはかなり心が痛む。この心の痛み、は真っ当であると感じるが、その「真っ当」という感情はどのような論理に従っているのだろう?? (堕胎に感じる罪の意識とも似ているように思う。)