極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

反消費の子

理由もなくさまよう、ネットの上を。書くという行為のために。

柔らかい文章を書きたいのになぜ硬くなるのか?

小中と成績がよく、高校でもそこそこだった私はアイドルに熱狂したり、流行を追いかけたり、ゲームに熱中したり、不良グループに入って中途半端にグレたり、ミーハーな子たちは出来が悪いと思っていた。それは多分に父親の影響だ。

父はテレビでお笑い番組や野球中継を見かけると、こんな役に立たない馬鹿たれどもをなぜ世間はありがたがってテレビに出すのだ、なんでワシがこんなしょうもないやつらに金を出さないといけない、と非難していた。確かに一生懸命働いて学校に行かせている息子・娘の「勉強」とこれらの娯楽は縁がないようだ。

しかし今の世は「消費社会」である。消費を促し、経済を促し、景気を良くするのが善だとされる。今も昔も学を修めることは変わらず善ではあろうが、今の世では随分と底上げがされてしまった。文化を高める以上に経済を良くする学問でなければ世間的評価は得られない。思えば遠くへ来たもんだ。

そして、子どもの頃から身につけてきた「教養」は、たとえばエルメスやシャネルといった商品知識でしかなく、「消費社会」がべっとりと貼り付いている。なおかつ、私は両親からは前近代的で反近代的で禁欲的な思想を受け継いでいた。受け継いだ伝統も理想も「正直」「勤勉」「機知」「ルサンチマン」をのぞいてはあまりなかったのかもしれない。学生時代の私はもう一つレベルの違う実在的な問いに悩まされていたので、「消費社会」と自分の育てられ方との矛盾については思い至らなかったが、今となってみると根深いものがあると思う。両親から受け継がず、自らの理想形でもない「消費の楽しみ」というものが肯定される映像コンテンツ業界に身を置き、人生を賭けようとしているという今の状況も「根深さ」を増している。