極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

教育の消費者…論の先

朝日新聞で芦田宏直氏の論説を読んだ。安倍政権肝煎りの教育再生実行会議が大学の2次試験を人物重視にシフトすると提言したことに反論し、人物評価は本人の地道な努力で獲得した学力を評価せず、「育ちの良さ」を評価することになり、所得格差を是正しない、点数主義のほうが平等だ、と説く。

と、ここから脱線。ここまで芦田氏の記事を読み直さずに書いているので、実は芦田氏自身の見解から逸脱している部分があるかも知れない。省察すると、私はヒトの意見をなぞるのがとても苦手だ。いつも自分なりにかいつまい摘んだ理解になってしまう。だからこそ、相手が言い終わる前に大筋は掴んでいる。その意味で察しがいいいつもりだ。私の理解はその時、相手のニュアンスを外していないつもりなのだが、「字義通り」を重んじる相手には、こちらが要約して話すことのニュアンスを理解させられず、相手が含めていたニュアンスを外している、という結果になり、そのズレが摩擦を生むことがある。そこまで繊細な、相手の感情までもなぞるような理解などその人にならずしてできようか!と思うけれども。

また相手の意見をコピペすると自分の掴んだニュアンスと地続きにならず、文章として流れていないものになってしまいがち、ということも一方で起きる。とにかく、メモを取って相手の言い分を伝達する機会でもない限りは、自分を見限って、自分の理解の方法で語るしかないと思う。

とはいえ、教育実行再生会議、という固有名詞が覚えられないという結果も他方である。これは努力して身につけるべき、点数の学力に属する。このような字義通り写す態度こそ、努力して身につけるべきだ。努力を努力と感じず、ストレスなく写すことができるようになることを私は自分に望む。

 ここから、話を戻す。芦田氏曰く、

1)「高度消費社会の台頭、物のあふれる社会では、物づくりに必要な体系的な知識よりも、消費者を魅了する分析不能で総合的な「物を売る力」が重要になる。」

2)「高度消費社会では、子どもまでもがお客様、つまり何を買うか選択する尊い主体として扱われます。教育現場でも、子どもは学びの主体と尊ばれ、学校は教育というサービスを消費する場となる」

3)「近代主義的な学校教育とは、主に教科学習を通じて未熟な子どもたちの主体性を育むことです。学校とは本来人づくりの場なのです。ところが高度消費社会では、子どもの主体性は教育の有無とは関係なくすでに確立していると見なされる。だから、入試でも主体、すなわち人物を評価するという発想が出てくる」。

 

2)は、内田樹の論説でもたびたび出てくる話だ。今や消費礼賛社会になって、教育も消費物となり、学生や生徒は消費者の立場で教育を選び、評価するという時代になった。内田氏はサービスに過ぎない教育を否定する立場だ。一方、芦田氏の論説で興味深かったのは、1)のモノ作りの能力ではない、モノを売る特殊な総合力が今は重要という話。よって彼は内田氏のような近代的な「尊敬できる師の礼賛」式ではなく、消費社会を肯定しつつ、「暗記主義・知識主義教育に対置されるのは人物主義ではない。どんな人材を育てるか、という一貫したストーリーが必要だ。時間をかけてより専門的に深く理解させる教育が必要で、それが学ぶ喜びにつながり、主体性のある人間を育てる」「教育にいま求められるのは、グローバル化に対応できるスキルの高い人材育成」だと主張している。

ここまで芦田氏の論を拾いつつ、やはり知っておくべき述語を学び知識は増えたが、結果的に面白くない結論につながる話を丁寧に拾うのは面倒だ、かいつまむ程度で捨て去っちゃうじゃん、と思ってしまった。尊敬できる師がいかにしてその考えに至ったかを聞くことは有意義だろうが、結論自体は面白くないことは多々ある。ともあれ、芦田氏の論は、物を売る能力の評価を「分析不能」と書いていることで心に残った。