極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

役作りができるドラマ作り

Eテレ「達人達」で俳優の國村隼が建築家の杉浦伝宗氏に語った役作りの話が興味深かった。土曜ドラマメイドインジャパン」で國村氏が大手電機メーカーの技術部の部長クラスのエンジニアを演じたときの話。國村氏によると男は東京に暮らして三代目、祖父が建てた家に住み、父は家で商売をしていた工員で、自分は家業を継がずにメーカー勤めをしているという。その言葉遣いは下町の江戸っ子を引き継いで、○○をできるのか?ではなく、○○できるのか、と助詞を省いたざっくりとした話し方をするんじゃないかと、セリフを自ら変更。また男の稼ぎが減って学費をまかなうのが厳しいので妻がパートに出なくちゃと話すシーンを國村の提案で削ったという。世界の覇権を争う大手メーカーの技術部長の給料がそんなに少ないはずがないという理屈からだ。また、朝出勤の際、息子たちに遅刻するなよ、などと声をかけるシーンでは、会社に行ってから段取るべき仕事のことを考えていて、息子たちにかける言葉に気持ちは向いておらず、セリフを言う意識もない、という。朝のなにげないシーンでそこまで役作りをしているとは。そして、昔の同僚が会社の技術を中国の企業に売っていると知り、その友人に会いに行くための旅費を妻に無心するシーン。酔っぱらって帰ってきて、妻に話をし、妻が了解してくれると、妻を抱く、とト書きはなっているところ、國村は妻の膝に頭をやって、膝枕をしてもらう体勢に。妻を演じたキムラ緑子曰く、台本どおり抱き寄せられると思っていたところ、膝枕で甘えてきたので、思わず夫が可哀想になって、泣きそうになった、自分がそうした気持ちになるとは思わなかったと言う。こうした演技者同士の緻密な掛け合いが行われ、それが出来る役者にそうした機会を作れるドラマ作りに関心した。

國村が演じたエンジニアが、東京で三代続く家の出だという設定は説得力がある。一方で、橋本治の小説「巡礼」に出てきた商家の話を思い出した。

橋本治「巡礼」。ゴミ屋敷の主がいかにしてそこへ行き着いたのかを描く。戦後、モノのない時代から工業化や西洋化が進み、生活スタイルが変化すると必要な物資も様変わり。旧来の個人商店=商家の中には時代に取り残されて廃業する家が出る。さらに職住接近のコミュニティが変容し、通勤圏が広がって新興住宅地が誕生。そのような社会と生活の激変に巻き込まれて、吹き溜まりのように行き場をなくした人の話だ。

勤め人の娘である男の妻は、商家のおかみである姑と育った文化・階層・気風の違いで対立して家を出ていく。「巡礼」は、商家のおかみと嫁との間に生じるすれ違いの在り方が具体的に書かれているのがいい。それらの事例が「へー」という発見なのだ。こうした社会に沈殿している階層の違いを材料にしたドラマが役作りに耐えるのだと思う。例えばフランス映画「最強の二人」は、裕福な白人の障害者とスラム育ちの黒人の介護者という階層の違いを超えた交流を描いているが、貧富の差や人種の差、性差レベルでは、平準化されて物足りないように思う。それをさらに、貧富の差や人種の差、性差だけでなく、住んでいる地域やら稼業の違いまでもがドラマを生むように作るのがよいと思う。

 アマゾンのレビューで、「三丁目の夕日」の人情豊かなコミュニティの裏側を描いているとあった。いかにも納得だ。またレビューによると、橋本治は「鎮魂は作家の仕事」というエッセイの中で、「哀れな死に方をした人に対して、ただ、「可哀想に」とだけは言えません。「可哀想」で終わってしまったら、また同じように「可哀想な死に方」をする人が出て来る可能性があるからです。「可哀想な例をくり返さないためにも、あなたの人生を徹底的に分析します」は、意味のあることなんじゃないかと思います。」と記しているという。