極子日子

つぶやくように書いて書けるようにするための雑記

オリンピックの涙

NHK、クローズアップ現代は最近いい時間に再放送をしている。ドラマの再放送は少なくなったように思うがどうだろうか。

今回は、認知症の後期高齢者が孤立を深めているというテーマで、汚ギャルならぬ、汚老人、というべき極限の生活状況のルポとなっていた。様々な高齢者が登場したが、それぞれが自分の家に引き込もり、人の助けを拒んでいることで共通している。助けて、が言えない。

夫婦もいた。40年来、店番で人と接してきていた奥さんが認知症になって引きこもり、現在は夫だけを頼りに生活している。家事もこまめにするタチだったが、十分にこなせなくなって嫌になり、やらなくなってしまった。夫婦の食事は夫がコンビニで買ったおにぎりやお惣菜で賄っていた。ホームヘルパーを頼み、デイサービスを受けることや施設通いを行政から勧められても奥さんが拒む。家がいい、夫だけいればいい。夫の方は妻が嫌がるのを無理強いできない。本人が嫌がるのだからさせられないと言う。

夫は訴える。世の中は7年後にオリンピックだと言って、それまで頑張ろうという人もいるが…、そこで夫は涙声になった。そんなことはできない者もいるんだ、と。

…以下、脱線するが、ここまで書いていながら自らの感想や考えを言わないのが、常の自分であるようだ。しかし、テレビ番組や評論みたいに結語をつけることが自分の課題だと最近思っている。「で、あなたの考えは」という問いが表現者を目指す時点で向けられているのだから。

そう、私は表現者を目指している。と、この時点でふわふわしている。軸がない、のではないとしたい。そうではなくて、しなやかでありたいのだ。「しなやか」とは美しい響きの言葉だ。表現者を目指しているのだけれど、力んで目指したいのではない。

むしろ、観察者でいたいと思っている。ある事柄があって善悪の判断をするけれど一旦は保留するようなことだ。当の事柄を善悪の判断や好みの判断の前に世界の中に位置づけたいのだ。「自分を勘定に入れず」、偏見で即断しないでいるためだ。

汚ギャルならぬ“汚老人”をいかに位置づけるか。“汚老人”は将来の自分の姿だ。子どものいない自分、家事が嫌いで面倒くさがりの自分、自己顕示欲はあっても物欲がうすく、見た目を良くすることを目指す類いの向上心がうすい、愛嬌がなく愛想を振りまくことも苦手で、そうであるのに人たらしに憧れている。世を拗ねた人間だ。拗ねる、というのは文字通り子どもの技。子どもらしい振る舞いであって、子どものダメなところであり、可愛いところである。守ってやりたがる人がいて、かまってほしがる人がいる。かまってほしくないと思っている当人を裏切って全身でかまってほしいと訴えている。自立の出来ない者どもが。